第2期生 二代目松風亭枝清
葬儀での弔辞から抜粋
私には大事な先輩でした 二代目さん、学問さん、早すぎます、残念です。闘病生活は苦しかったでしょうね。本当に、本当に、心から、ゆっくり休んでください。 二代目さんの追い出し論文で落研機関紙「羽織」掲載の「落語の歴史」は卒論に勝るとも劣らぬ力作です。今読み直して改めて、そう実感しております。昭和41年11月付人形町末広亭の演題記載のポスター、私のスクラップに大事に保存してあります。昭和44年5月の寄席のポスター、看板の写真…今輔、柳橋、小さん、正蔵、馬生…の写真・スクラップを大事に保存してあります。 これは皆、「笑太、寄席文字やってくれるなら、これを手本にしてガンバレ」と、二代目さんからいただいた大事な教科書です。当時は二代目さんも手本が無く、自ら東京へ出向き、コッソリとポスターを剥がして持ってきたり、写真を撮ってきて手本にしたりと、まさに、覚えたい、モノにするんだ、したいんだ、という思いがこの様に気持ちをかきたて、落研の寄席文字の基礎を作ってくれたのです。 二代目さんの気さくな人柄と礼儀正しさと律儀さがあいまって私には大事な先輩でした。私の最初の噺も二代目さんが演った「堀の内」でした。ヒョーヒョーとしたやり方に魅了され演りたいと思った訳です。 その二代目さんが4年を終える段で「笑太、お前名堀丹の三代目を継がないか、名堀丹を途切れさせたくない」。この言葉からも先輩の意を汲む律儀な方だと、あらためていい方だと思った次第で、「頑張ります、ありがとうございます」と、三代目を受けさせて頂きました。 卒業後も連絡途切れることなくご厚情賜り、心から御礼申し上げます。本当に、本当に、ありがとうございました。 第3期生 三代目素禿亭名堀丹 |
大きな礎でした 二代目名堀丹の訃報に愕然としております。療養中と伺っておりましたが、お元気になられてまた、落語舞台論を交わせるものと信じておりました。 彼が入部したのは部創設6ヵ月経過の時、子供のころ習字を習ったことがあると聞いて、新入生の彼に先輩が命じたのは「寄席文字に似せた字でメクリを書くように」と。1ヵ月後に出来上がったメクリは右近を思わせる見事な寄席文字でした。部員一同歓喜したことが想い出されます。 彼はその間、東京の寄席に何度も通い木戸はくぐらず表の看板を見続け、模写をして、時にはポスターをこっそり無断で持ち帰り、そんな彼の努力で創部1年後には寄席文字だけは他の大学に優るものとしてくれました。彼は東北学院大学落語研究会の名実共に大きな礎でありました。 ご冥福をお祈りいたします。 OB会会長 第1期生 翁家小三馬 |
やっさん、ほんとうに残念です 余りにも急なことで何も出来ないでいるようなことでございます。この急逝はいまだに信じ難い知らせでございまして、ご無礼の段ただただお詫び申し上げるのみでございます。 振り返りますと、私は小・中学、高校・大学までず〜っと、ともに学び・遊んだ仲間であっただけに、このような訃報に接することはまことに痛恨の極みです。 高校時代はご自宅でたくさん飼育していた伝書鳩を譲ってもらったり、大学卒業の折は写真と得意の寄席文字で「高座歴」アルバムを作ってもらったり、社会人になってからもその寄席文字で「めくり」などいろんなものを作ってもらったり…と、もらったりもらったりばかりでしたね。なんのお返しもしないうちに旅たってしまうなんて…。 私どもはあなたのことを「やっさん、ヤスさん」と呼んでましたが、多くの仲間や後輩たちに慕われるほんとうに面倒見のいい、気のいい男でした。 そういうやっさんがなぜにこんなに早く逝かなければならないのかと思うといたたまれない気持ちでいっぱいです。私どもにとってはまだまだいろんなお世話になったりご支援をいただいたりしなければならないところでした。ほんとうに残念です。 心よりご冥福をお祈り申しあげます。 第2期生 竹馬亭志ん友 |
よく頑張ったね 4年前、大病を乗り切ったことで「もう安心だね」と話してた矢先、突然「俺入院するよ」とのこと。一応念のため入院するだけだからと言っていたが、そのまま帰らぬ人になろうとは。 体調が悪いのにもかかわらず、入院の前日まで仕事に頑張っていたようだが、その頑張りが命を縮める結果になろうとは。お前の一番の良さである頑張りと責任感の強さが命取りになったような気がしてなりません。良くなったら今年もサクランボ狩りに行きたいと、楽しみにしていたのに…。 奥さんの寝ずの看病を見ていると、お前も幸せ者だと思ったのも事実。そんな奥さんや家族に見守られての一生は、短かったけど、やり残したことがあったと思うけど、残念だったけど、俺も悔しいけど、お前にとっては充実した一生だったのではないだろうかと思う。 安らかにお眠りください。 第2期生 胃仲家百勝 |